ChatGPTと暗黙知と日本人
生成AIに怯える現代
不断の努力で自己を磨き生成AIと競争する
今や例えばPOP音楽の世界では、簡単にヒットチャートのトップをとれる音楽がつくれ、絵画では、巨匠といわれる画家の筆使いを使って新たなモチーフの絵を作ることも容易、映画の世界では超大作映画の製作や配信が可能になってきている。これらは、過去の様々な制作物の情報をベースとして作られていることから、あらゆる分野のクリエーターから「著作権違反」の避難の的となっている。しかし、生成AIが創造する作品はトップクラスのものができることになると、今までの平均的クリエーターは、はたして自分の著作権を主張できるだろうか?おそらく生成AIがつくる作品は、質が高くしかも安価に作られることで、人々から称賛されるようになると、ソンジョソコラの一般クリエーターは、相手にされなくなるであろう。つまり、これからのクリエーターは生成AIと競争し、生成AIを凌駕するだけのクリエイティビティやオンリーワンのユニーク性を発揮しなければ存在価値を問われることになる。
果たしてそんなことが可能だろうか?2045年頃といわれている、AIが人間の知能を上回るシンギュラリティがすでに来てしまっているのではないか?
救いは『暗黙知』にある
こんな疑問に対し、ひとつの“解”をもたらすのが、マイクル・ポランニーの暗黙知(tacit Knowledge)という概念ではないだろうか?
この概念は、ハンガリーの物理学者・人文科学者・社会学者である天才といわれたマイケル・ポランニー(Michael Polanyi 1891―1976)によって、1966年に著書である「暗黙知の次元」の中で提唱された。暗黙知とは「語られることを支えている語らざる部分に関する知識」、すなわち経験的知識とも呼ばれ、個人の経験や勘に基づくコツやノウハウなどの「主観的な知識」や「言語化が難しい知識」を指す。「人混みの中から知人を見つけられる知性」(現代では、顔認証技術によって実現されてはいるが)や「自転車に乗れること」「ベテラン職人の語ることの出来ない熟練技術」などが具体例として挙げられ、実践経験を通してのみ獲得できる「身体的な暗黙知」と、世界観や視点といった「認知的な暗黙知(メンタル・モデル)」の2つに分類される。
『人間にには、言語の背後にあって言語化されない知がある。「暗黙知」、それは人間の日常的な知覚・学習・行動を可能にするだけではない。暗黙知は生を更新し、知を更新する。それは創造性に溢れる科学的探求の厳選となり新しい真実と倫理を探求する原動力となる。隠された知のダイナミズム。潜在的可能性への投企。生きることがつねに新しい可能性に満ちているように、思考はつねに新しいポテンシャルに満ちている。暗黙知によって開かれる思考が、新しい社会と倫理を展望する。より高次の意味を志向する人間の隠された意思、そして社会への希望に貫かれた書。新刊。』
暗黙知とは人間の意識化にストックされている知ではない
注意しなければならないのは、暗黙知は、人間の意識化に眠っているような知ではなく、人間の創造的活動や伎倆習熟の過程でおきる「創発」(思いがけず急に現れる発明・発見・イノベーションなど)を導く個人の知識の総体の中で生成される知とでもいうことができよう。
拙著『ビジネスモデル特許で億万長者になる法』の中で、私は『発想は、自分の中にある「知識」「知恵」「想像力」をフル活用し、ある事象をゴールイメージにそって、「360度の角度で眺めまわす」、「四方八方触りまくる」、「なめまわす」、「たたく」、「蹴飛ばす」などして本質にせまる。考えに考え、悩み苦しんでいるうちに、ある日突然発想が空から降ってくる・・・』と書いたことがあるが、まさに『暗黙知』とは、このようなものではないかと思う。(私のつたないポランニー解釈ですが・・・)
つまり、暗黙知とは、創造活動や伎倆向上活動の中で、個人の中で生まれ蓄積され拡大する知識の総体が形成される中で「創発」を喚起する力となるもの=知識のプロセッサーということが出来るだろう。
データドリブンへの過度な信奉をやめよう
では、この暗黙知は、どのようなプロセスにて生まれるのか?残念ながらその具体的方法は、ポランニーによって明らかにされてはいない。
要は、ある事象に関し、個人の中で生まれる知識の総体をどれだけ拡大し、深められるか、その血のにじむような努力と活動こそが、「創発」を誘発する、すなわち暗黙知が生成される、としかいいようがないかも知れない。
この獏としたプロセスは、データドリブンの信奉者にとっては、おそらく許しがたいものとしてうつるであろう。データドリブンの信奉者にとっては、業務プロセスにおいて、KKD(勘、経験、度胸)に頼ることなく、様々な種類のデータを蓄積し、そのデータの分析結果をもとに、課題解決のための施策を立案やビジネスの意思決定などを行うことが大切となる。しかしここで問題となるのは、データに依存する限りデータを超えた広がりと深みのある知識の総体に迫ることはできないということであろう。
「自転車にのること」、「ベテラン職人の語ることのできない熟練技術」などポランニーのいう暗黙知は、KKD(勘、経験、度胸)によるところが多く、これは極めて日本人的思考と相性が良い。
がんばろう!今こそ日本人の「深い知」が求められている。
我々はコンピュータによる形式知を重視することに慣れすぎてきた。その結果、人間の本来人間らしい創造性を磨く努力を低下させてきてしまっている。
コツコツと自分を磨く、伎倆の習熟に励む、簡単に物事の解を求めるのではなく、深めるだけ深めて物事を考えるなど、思考を深めることこそが”暗黙知”という知識のプロセッサーを起動させることになるのだ。このような思考プロセスは、実は日本人として当たり前にやってきたにも関わらず、いつのまにか忘れ去られているのが今日の日本だ。
もっと日本人の伝統にのっとり、日本人的思考を再度深めていく必要があろう。
この暗黙知は日本人と相性がよく、我々日本人は、数々の発明・発見をしてきた。しかし、いつの頃からか、日本人はモノマネがうまく、それを”改善”することであたかも自分たちの発明商品のごとく広く世界を席巻してきたと言われていた。いや、そんなことはない。例えば、「かんばん方式」は米国で「just in time」という形式知として生まれ変わった。古くは、「真珠湾攻撃」が「task force」としてシステム化された。また、今日では「メス」として広く世界に行き渡っている覚醒剤メタンフェタミンも日本人の発明である。
もう一度、日本人の発明・発見というものを我々は思い出す必要がある。扇」、「日本刀」、「電気釜」、「インスタントラーメン」、「インスタントコーヒー」、「ビタミンB1の発見」、「フロッピーディスク」、「八木アンテナ」、「胃カメラ」、「ビデオゲームソフト」、「競輪」、「競艇」、「かんばん方式」、「LHA解凍ソフト」、「ウォシュレット」、「メ゙タンフェタミン」、「LEDの緑と青」等々、これら世界に冠たる発明・発見をしてきた日本人はどこへ行ったのだろう。今日、我々日本人は、混迷する世界の中で、再び『Japan as No1』の自信を取り戻す時がきているし、必要とされている。今ほど、日本人のもっている『深い知』が必要とされている時代はない。(2023年10月)